小林虎三郎墓所


小林虎三郎 墓所
長岡藩士で北越戊辰戦争のために荒廃した長岡の町を復興させるために尽力した小林虎三郎と、その弟である小林雄七郎の墓所です。
小林虎三郎は、明治10年(1877年)に亡くなりました。享年66歳でした。東京・上野の谷中墓地に葬られました。
しかし、昭和34年(1959年)、小林家の菩提寺である興国寺の住職・中村良辨が、郷土長岡でその遺徳を偲ぶため、虎三郎と雄七郎の遺骨をここに移しました。
墓石には、虎三郎の戒名と、雄七郎の戒名が刻まれています。

墓所には、小林虎三郎の業績を称えた碑文が刻まれた「小林虎三郎翁之碑」があります。
また、墓所の周囲には、小林虎三郎の像や、長岡の町を復興する様子を描いた石碑などが建てられています。
小林虎三郎墓所は、長岡の近代教育の父として、長岡の復興に尽力した小林虎三郎の偉業を偲ぶことができる重要な史跡です。


小林虎三郎 米百俵
小林虎三郎は、1811年に長岡藩士の家に生まれました。父は、長岡藩の学問所である致政館の教授を務めた小林平七郎です。
虎三郎は、幼い頃から学問に優れ、16歳のときに江戸へ出て、佐久間象山に学びました。象山のもとで、西洋の学問や思想に触れ、明治維新後の近代日本を担う人材になることを志しました。

ペリー来航に際しては、象山とともに横浜開港を主張したことで、長岡藩から処罰を受けました。
しかし、虎三郎はこの経験から、藩の封建的な体制に批判的になりました。
維新後、長岡藩の大参事となり、長岡の復興に尽力しました。
中でも、明治3年(1870年)には、長岡藩の支藩から送られた米100俵を売却して、長岡藩の第一国立尋常中学校(現在の長岡市立長岡高等学校)の設立資金に充てるという「米百俵」の逸話で知られています。
これは、当時、長岡は北越戊辰戦争によって荒廃し、人々は飢えと貧困に苦しんでいました。虎三郎は、長岡の町を復興するためには、教育が重要であると信じ、この決断を下しました。
また、長岡女学校(現在の長岡市立長岡高等学校)の設立にも尽力し、初代校長を務めました。
また、虎三郎は、長岡女学校(現在の長岡市立長岡高等学校)の設立にも尽力し、初代校長を務めました。
長岡女学校は、新潟県で初めての女子中学校として、長岡の女性の教育に大きな貢献をしました。
小林虎三郎は、長岡の近代教育の父として、長岡の復興に尽力した偉人です。その功績は、長岡の町に今もなお受け継がれています。
長岡藩の政治や経済の改革にも尽力しました。また、長岡の産業振興にも取り組み、長岡の復興に大きく貢献しました。
虎三郎の業績は、長岡の近代化を大きく促進し、長岡の町を今日のような豊かな町に育て上げたと言えるでしょう。